9月病
なんでもかんでも〜月病とつけるなと思う。
なんかちょっとどこか悪いからってすぐ月のせいにするのはどうかと思う。
そして俺は絶賛9月病中だ。
もう4年目。今年で9月病歴4年目。
21の年から始まり毎年9月に自分の中のバイオリズムが底辺へ沈む。
去年の10月頃〜今年の8月頃までバイオリズム的にはかなり調子良かったので「あれ、今年大丈夫なんじゃねーのかな」と思い始めた頃からなんか気分が浮かなくなってきた。
夏〜秋にかけての精神調整が全然上手くいかない。
そして旅の計画を立てる。
毎年9月頃に「逃げ」の旅の計画を立て始め持ち直してくる10.11月頃に1人旅に行く。
今年も例に漏れず計画を立てていた。
「逃げ」の旅。
これがないと諸々キツい。
ちなみに俺の中で「旅」と「旅行」はなんとなく違うものとして捉えている。
自分の裁量がほとんどを占めているのが「旅」。
他人の意思も入っているのが「旅行」。
そうなると必然的に家族や彼女、友達と行くのは「旅行」になるし、1人で行くのは「旅」となる。
どちらも好きだ。
ただこの時期はやはり「旅」の計画を立てずにはいられない。
計画を立てている時から既に「旅」は始まっているんじゃないかと思う。
既に楽しい。
なんやかんやしてこの夏から秋への移行がもたらす9月病を乗り切っている。
それにしても気分が晴れない。
優位性
為替含め投資をやっていると優位性という言葉と頻発に出会う。
優位性とはつまり業界でいう確率。
確率の高い方向に張ることを優位性のある取引という。
よく「FXなんてギャンブルじゃない?」と言われる。
一応ギャンブルをコトバンクで。
賭(か)け事。ばくち。
らしい。
そう言われると優位性のある方に賭け続けるFXは確かにギャンブルかもしれない。
問題は優位性のないギャンブルをすることであって優位性のあるギャンブルを理解出来たら何の問題もない。
理解出来ても行動することの難しさたるやと言う話になるが今回は省略。
そう、つまり優位性のある取引をし続ける事が出来れば複利の恩恵も受けて倍々方式で資産は膨らむ。筈だ。
しかし
中々それが出来ない。
しばらくすると、と言うより優位性のある取引ってなんだ?根拠はあるのか?という問題にぶち当たる。
これがまた困難を極める。
何となく答えみたいなのは知っている。
量と質の結果導き出される独自の手法だ。
基本的なことだ。
自分の取引をよく分析して過去をよく検証し(質の部分)たくさんの正しい経験を積むこと(量の部分)。
そう。
とても地道なことだ。
連日連夜自分の弱い部分と向き合い続け改善し行動し続けなければ優位性ましてや独自の手法なんてものは見えてこない。
これがまた辛い。
逃げたくもなる。
たまに逃げる。
しかし、1日の量や質が理想に及ばないものでも「日数」がそれをカバーする。
次第になんとなく見えてくる。優位性が。独自の、自分なりの手法が。ぼんやりと。
そして理屈から生まれ自分のものとなり始めた手法をぼんやりと理解し始めた頃こんなことを思う。
このままじゃダメだなぁ。
思うように勝てない。
たまにやらかす。
進むスピードが遅い。
これは一概に優位性の話だけではなく単に損切りが遅いとかリスクリワードミスってるとか資金管理間違えたとかメンタルの話になってくるのだが。
多分、皆分かっている。言葉や理屈では理解している。
「あぁ損切りしないと。。。」
「レバレッジ張りすぎだよなぁ。。。」
「ナンピンして証拠金維持率がヤバい。。。」
そもそものエントリーポイントであったり往往にして理由はあるだろうけど、結局理屈重視の手法を用いた取引でもメンタルで負けることになる。
じゃあメンタルを鍛えればいいのか?
うん。
そうだ。
ある程度メンタルを鍛える。
相場に対する正しいメンタルを染み込ませなければいけない。
これもとても時間と根気の要する作業だ。
中々出来ない。
しかし手法の確立と共通して、何となく見えてくる。
理解していたことを何度も出来ない自分を責め何となく身に付いてくる実感が湧いてくる。
そしてこんなことを思う。
このままじゃダメだなぁ。
俺は今ここだ。
手法にしろメンタルにしろ発展途上。それも初期段階。
ここでまた思う。
つまりこれなんじゃないかと。
答えもなければ必勝法もない矛盾だらけの相場に対して大切にしなければいけないことはこれなんじゃないかと。
メンタル、手法、姿勢。
大事だ。凄く大事。
そして
これら全てを含めて「相場」というものと相対する自分という人間そのものに優位性がなければならない。と。
これが俺の現段階の着地点だ。
手法を超えた話だ。
メンタルともまた違う話。
矛盾の世界だ。
相場は矛盾だらけだ。
そして相場は唯一常に正しい。
相場で生き残っている人間が正しいのではない。
一見必勝法の様に見える相場に対して正しくあり続ける手法。
つまり「優位性」を重視した取引を続ける。
これだけじゃ長いこと生き残れない。
何となく分かってきた。
全てを含めて相場に対して優位性のある自分であり続けなければいけない。
馬鹿みたいな話になってくるが第六感が働いてくるようにならないといけない。
結局、感かよ。と。
そう。
感がとても重要なのだ。
理屈の後の「感」が重要なのだ。
理屈で語られてる優位性とは真逆のことように聞こえるが感こそ生死の境目を決める。
その「感」がただの「感」ではなく優位性の伴なう「感」になるまで正しい量と質の行動は続けなければならない。
そしてようやくスタート地点に立てる。ような気がする。
そう考えると俺は量も質もまだまだ。
こんなもんじゃないんだろうなぁと思いながらも理想の量と質に追い付かない日々を送っている。
「感」も働くがまだまだ、ただの「感」であり優位性の伴う「感」は養われていない。
ましてやその前段階である手法もメンタルもまだまだ理想とは程遠い。
圧倒的に足りない。
チンカスである。
あらゆる思考、姿勢、行動、経験を通過した後の「相場に対して優位性」がある俺になる日はまだまだ遠い。
もう終わり方が、分からない。
終わり。
価値観
「人」に雇われ「組織」の中で働いていると色々ある。
おそらく人の数だけ色々あるんだろう。
俺はよく「こいつら馬鹿だなぁ」と思う。
が、最近あまり馬鹿馬鹿思うのもどうなんだろうなと思い始めたりしてる。
要は価値観の違いなのだ。
そしてそれを受け入れるのが多様性を理解することであり、俺にとってはそれが当たり前でありそれを出来ない人間に対して俺は「こいつ馬鹿だなぁ」と思っているだけなのだ。
俺の当たり前が当たり前じゃない人間を「馬鹿だなぁ」と思っているだけなのである。
じゃあ俺も多様性を結局受け入れてないじゃないかと思ったがそれもまた違う。
人は当然の様に各々の価値観を持ち生きている。
こと組織に関してもその組織特有の価値観があり空気感がある。
強要なのだ。
価値観も常識も違う人間が自分に対して強要を行ってきた時「馬鹿だなぁ」と思う。嫌だなとも思う。殺してやろうかなこいつと軽い気持ちで思う。
モラルの押し付けとも言うのだろう。
労働に関しての捉え方。
俺は契約書以外、それ以上でもそれ以下でもないと捉えている。
俺は契約書通り労働を提供する。そして賃金を得る。
それだけでしかないのだ。
逆に契約書以外のことにはノータッチなのだ。
別に誰にも強要をする気もされる気もなければ主張する気もない。
そう、主張する気もない。
まして人の価値観に対してモノを言う気もさらさらない。
それが侵されるまでは。
俺にとって当たり前の労働に対する価値観に対して他人の価値観や当たり前、モラルを強要されるのが何より嫌いなのだ。
だから「馬鹿だなぁ」と思う。
「あぁこいつはこう考えているんだなぁ」
それだけで良いのだ。
どっちが正しくも間違ってもない。
所詮経営者以外雇われ人間で組織というものは成り立っているのだ。
契約以外の事は自由にいこうぜ。
てのが俺の価値観であり常識であり当たり前。
無駄な関わりは避けたいなぁと思いつつ侵される度に攻撃仕返す不毛な闘いは俺が雇われている労働者である限り無くならないんだろうなぁと悟り始めた。
負け
同期と飲んで来た。
俺達は組織に雇われ労働力を提供し賃金を得る被雇用者だ。
不満の一つや二つも出る。
辞めてやると大口叩きたくもなる。
分かった気になって豪語もしたくなる。
俺達は人間だ。
負けたまま豪語もしたくもなる。
そして負けたまま負ける。
俺達を軽んじ蔑み馬鹿にした連中を許したまま負けるなよ。
負けるのは仕方ない。どうにもならないこともある。
じゃあやれるだけやって負けていった人間はどれほどいるのか。
若者離職率問題が語られる時必ずと言っていい程逆説的に「その場所でダメでも他の場所なら輝けるかもしれない」と言った決まり文句が横行する。
よく分かる。
人が変わる三大要因に含まれるくらい環境って大事。
ただ全肯定出来るものでもないと俺は思う。
「ダメだと思ったがまだ出来る、やれる余白があるかもしれない場所で出来なかった、やれなかった」なら多分変わらないよ。
雑な言い方なのは承知な上で。
そう楽に人は変われない。
次も可能性を残したまま負ける。
勇気を出せば本当は出来た、やれたんだけどなという本人が1番よく分かるその部分を分かった上で負けるのは大きい。尾をひく。
打てるインロー真っ直ぐを球威にビビって見逃した奴が次同じ球威の真っ直ぐがアウトローに決まったら打てないでしょう。
絶対とは言わないが確率的には落ちるよ。
なら最初に振らなきゃ。
ビビっても抗えよ。
自分の為に。
「俺、私は出来る、やれる状況で出来なかったやれなかった」ということを血肉になるまで噛み締めなきゃ。
せめて事実をそのまま受け入れなきゃ。
資本主義だ。
ゴリゴリの資本主義だ。
まぁそれは資本主義だ。
自分から捻出される経済力だけで生きていけないなら組織に属するしかない。
属しながら何もしなきゃ搾取され続けるだけだ。
気を抜けば負け続ける。
余白で全力を尽くせなかったら何も変われない。
しょっぱい飲み会で分かり易い共感だけを求めて傷の舐め合いをする糞にだけはなるなよ、俺。
敵は、自論を振りまいている目の前の人間じゃなくて打てる球を見逃すお前自身だよ、俺。
全ての文章に自戒を込めて。
税金
金持ちの叔父がいる。
毎年盆には莫大な金パワーで全ての時間を快適に過ごさせて貰っている。
金が全てではないが全てに金が必要だ。
ウシジマ君引用。
その通りだと思う。
誰より月給何十万多いとか平均より云々とかそういう所じゃないんだなと。
知ってはいたけど最近理解出来た気がする。
懐を気にすることのない財力があれば全てではないが限りなく全てに近く思いのままに生きることが出来る。
間違いなんだなぁと特に社会人とやらになってから実感しまくる。
じゃあどうすればそこに行けるか。
違法じゃない範囲で思いつくのは起業?投資?博打?
日本は自由だから何でもありだ。
特に突出した才能も能力もない人間が出来ることで1番可能性が高いのは投資なのかなと俺は思っている。
適切な努力をすれば何とかなる。かもしれない。
今ビットコイン始め仮想通貨に対する税金問題が盛り上がっている。
税率に関しては詳しくは省くがとにかく利益に対し課税が加えられる。
俺も今年の3月に為替利益に対する課税で確定申告をした。
その時も思っていた。
おかしくないか?
そもそも住民税と所得税、問答無用に取られる保証のない年金に対しても腹を立てているのに雑所得区分での課税って何だそれ。
俺達下民が唯一這い上がれるかもしれない金なんだよ。
取るなよ。
そもそも貴様ら国は関係ないだろう。
稚拙な意見と捉えられるか?
それでも俺は全投資家で国会デモ起こして良いレベルでしょと思う。
日本人に生まれただけで6の目出したようなもんだ。
せめて税金くらい高く払えと。
分からんでもないよ。うん。確かにね。
じゃあ所得税と住民税はね。はいはい。
でも雑所得て。
やめてくれよ。
と、声を上げられない俺はまだまだ弱小だな。
蔦屋書店
終わらない。
一年半前、スリランカに行った時のことを忘備録的な形で残しておこうとブログを開設したのが半年前。終わらない。
というか進まない。
一応その7までは行ったのだが当時のことを思い出しながら色々リンクを引っ張ってあーだこーだ言ってるとその内飽きてきて全然進まない。
日記的なことが向いてないのかもしれない。
昔から日記の類は全然続かなかった。
全て書き終えてから一気に投稿したいという無駄な完璧主義者気質が出てしまい結局下書きに埋もれたままの7記事。
いつか日の目を浴びる日は来るのだろうか。
ということでもう雑記というか独り言というかツイッターの延長戦的なブログをボチボチ始めることにした。
いずれいきなり大量の旅記事がアップされることを祈ってやまない。
記念すべき初回は蔦屋書店。
俺の大好きな蔦屋書店について書こうと思う。
書こうと思うとかいうと書くことが思いつかなかくて早くも頓挫しかけている。
俺は蔦屋書店が好きだ。
週4で来ている。平日はほぼ毎日来ている。
本を読むのは昔から好きだが本屋で立ち読みするのは疲れるしいざ買うと家ではそんな読まない。
PCや携帯があるからだ。
読書よりyoutube、読書よりamazon prime videoとなる。
また弱小ながら為替でトレードもしている。
平日家で優雅に読書なんざ落ち着いた気持ちで出来るわけない。
ということで最適なのが蔦屋書店。
ここは良い。最高だ。
何故なら椅子があるから。
店舗によって差はあれど俺の1番好きな蔦屋書店はソファーまである。隣にスーパーもあり腹が減ったらなんか買ってベンチで食いまた蔦屋書店に戻る。最高だ。言うことない。
本屋の中をウロウロしていると普段自分が興味無い本もなんとなく読めてしまうのが良い。
また気になっていた分野の本とも巡り会うことが出来る。
何でも出来る。最高だ。
以上。蔦屋書店は最高だ。
にしても蔦屋書店をネットで検索すると代官山と函館がイチオシ的な感じで出て来る。
確かにこの間函館の蔦屋書店に行った時には驚いた。
洒落まくっていたのだ。
デートスポットのような雰囲気を漂わせていたしカップルや女子友達で来ていますみたいな層が大半を占めていた。
俺が普段行っている蔦屋書店は暇な老人だらけだ。
恐らく代官山もそんな感じなのだろう。
一体何が違うんだ。
蔦屋書店の格付けは何で決まっているんだ。
どちらにしろ快適なことに違いはないのだが。
一体その差は何だ。
答えが見つからないまま蔦屋書店でこれを書き終えた。蔦屋書店は最高。
スリランカその7・テッィサマハラーマ〜ヤーラ国立公園
明朝、6時にゲストハウスの通りに集合なとサファリの売人であるサンダルから言われていたので時間より少し早めから待機。が、中々来ない。
30分程待つとジープが現れ、サンダルの客かと聞かれジープに乗り込む。
他の客も拾って行くからと言われ別のゲストハウスへも向かった。
その後も何件か別のゲストハウスを周り、他の観光客が大体乗ったところでサファリへ向かった。
運転手は時間がないからと言い、薄暗い中反対車線を爆走していた。
この時がスリランカで一番怖かった。
助手席に乗りながら何度も注意していたが、とにかく時間がない、急いでいるからとスピードを緩めない。
「あーこれ前から対向車来たら死ぬな」と恐怖に怯えながら目的地に着くのを待った。
サファリに着くと他のジープもワラワラと集まっており、そこで運転手から昨日サンダルから伝えられていた通りの入場料を請求されたので渡した。(人件費、交通費諸々含まれているものらしい)
そこでも特にボッタクってくる様子もなくそれまで半信半疑だったサンダルのことを初めて信用した。
ジープ達は順を追って入場していった。
我々のジープも続いて入場していきサファリが始まった。
基本的に運転手が各地点で動物の生態等について説明しながら進んでいくというスタイル。
近い。
ちなみに俺は動物が大好きだ。
飼っているわけではないが、昔から動物園の類が大好きで今でも一人で行く。
友達と二人でわざわざ那須サファリパークに行くぐらい大好きだ。
ということでスリランカに来たらこのヤーラ国立公園には絶対来ようと思っていた。
住んでいた頃、来たことがあるらしいが全然覚えていなかった。
まぁほとんどゾウと水牛しかいなかったのだが。
半日コースとはいえこのサファリ内をジープで5、6時間周り続けていたら腹も減る。
前日にサファリへ行くことをゲストハウスの奥さんに伝えていたので、出る前にサンドウィッチを作って貰っていた。
サンドウィッチや、持って来ていたカロリーメイトを頬張りながらそろそろ飽きて来たなぁくらいのタイミングでジープも出口に向かいだした。
帰る前、何故かこの水牛がいる川で30分くらいぼーっとさせられた。
時間調整だったのだろうか。
サファリを出るとイノシシの親子が群がって来た。
餌は持ってないよイノシシさん。
その後はまた朝と同じように、各ゲストハウスを周り参加者を下ろしてサファリは終わった。
宿に着くと、夕方5時くらいであった。
半日コースですら終盤飽きていたので一日コースじゃなくて良かったなぁなんて思いながらそれっぽい感じで写真を撮ってみる。
手に巻いてあるゴムはファッションじゃなく蚊除けのゴムだ。
これに加えコロンボのスーパーで購入した強力なモスートスプレーを常に体に噴射していたので、サファリに行っても特に虫に食われることなく済んだ。
ゲストハウスの家の子とキャッチボールをしたりサッカーをしてみたり周りをブラブラ散歩したりしながら時間を潰した。
二泊目ということで気を使って貰ったのか何か知らないがゲストハウスのオーナーが夜ご飯を作ってくれた。
サンドウイッチとカロリーメイトしか食べていなかったので何を食っても美味かった。
ティッサマハラーマで宿泊したホテルはここである。
一泊3千円程。
スリランカの個室ゲストハウスとしては平均的な価格。
予約はブッキングドットコムで取った。
とても綺麗な部屋で快適な空調にダブルベットであったので文句なし。
wifiの貸し出しもあり何の不便もなく過ごせた。
スリランカその7終わり。